望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

繰り返してきたことか

 中東からアフリカにかけて、政府が機能しない破綻国家が点在してテロ集団が跋扈し内戦状態となり、欧州には大量の難民・移民が流入して、多文化主義など欧州が掲げる理念・理想が揺さぶられる一方、台頭する中国が欧米主導の国際秩序に黙って従うことを拒否し始めるなど、世界は流動化した。

 世界は細かく分断され、秩序が解体しつつあるようにも見えるが、これが常態だと考えれば、過度に不安視したり、危機感を持たなくてもいいことに気がつく。どのような分断が何処で起きているのか、どのような秩序が誰によって、どのように解体されようとしているのか、冷静に分析して対応すればいい。

 確固とした世界秩序の下で全人類が平和で安定した生活を送るというのはユートピアだろう。つまり、現実には有り得ない。世界は常に変化しているのであり、分断も秩序の解体も変化の現れにすぎない。ユートピアを基準にするなら、地球上の人間世界は欠陥だらけにしか見えないだろうが、聖人君子ではない欠陥だらけの人間がつくる世界なのだから相応だな。

 地表にある陸地が移動し続け、何万年もかけて形を変えるように、人間がつくる社会・国家も世界も形成と解体を繰り返し、数十年、数百年で形を変えるのが当然か。そう考えるなら、分断や秩序の解体は、時代の変化に対応した新しい変化の兆しでもあり、否定すべきものだと批判的に見るだけなら、変化の示すものを捉えることは難しくなろう。

 とはいえ、個人の“持ち時間”は数十年だ。年表には過去に起きたことは記されているが、未来に起きることは記されていない。長い時間の流れの中で見えて来る世界の変化を、個人が個別の出来事から類推し、正確に理解することは困難であることは間違いない。分断や秩序の解体の先にあるものを個人が見通すことはできず、不安視し、危機感を持つことは、繰り返されてきた反応だろう。

 繰り返されてきたのは個人の意識だけではなく、生存や社会生活に関する多くのことが、その時々の時代の“衣装”をまといながら、同じように繰り返されてきた。例えば、敵をつくって殺害することは太古から人間が続けてきたことで、殺害する武器が「進化」したに過ぎない。石で殴り殺し、槍で突き殺し、刀で斬り、銃で撃ち、ミサイルを撃ち込むと方法は変わったが、人類は繰り返し、殺しあってきた。

 現実を肯定し、無気力に流れに追随することを正当化するのではない。人間は永遠に未完成で、同じ過ちを繰り返すものだと突き放して見るなら、分断や秩序の解体の先にあるものは、人類が過去に何処かでしでかしたことの繰り返しかもしれないと見当がつく。それには、世界の変化に一喜一憂せず、浮き足立たずに情報を集め、分析するしかないだろう。