望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

嫌ぁ〜な感じ

 自分の側に間違いやミス、誤解など非があったことを自覚したなら、対立していた相手に謝罪する行為は自然なことかもしれない。だが、どちらの主張にも相応の正当性があり、それが対立している場合には、話し合いで妥協点を見いだすしかないが、どちらも譲らず、話し合いでは双方とも納得できないならば決裂するしかない。

 だが、自分の主張に正当性があると考えつつも、諸々の事情から謝罪せざるを得なくなることもある。主張の当否は棚に上げて、仕事絡みなどの金銭関係や上下関係、さらには長いつき合いの中で形成された人間関係など別種の力学が働き、“弱い”側に謝罪させて、対立状況はひとまず終わった形にする。

 謝罪した側は全く納得していないが、表面だけ相手の意に従った形だ。主張の当否ではなく、力関係が持ち出されたとあっては、立場の弱いほうが「大人の事情」を理解して、“折れて”謝罪する形でケリをつける。ただし、謝罪した側は理不尽に頭を下げさせられたとの不満を持ち続け、謝罪を受けた側も、相手の本心からの謝罪でないことは分かっているので、相手に対する警戒心めいた気持ちを持つようになる。

 心にもない謝罪なんて御免だと、力関係で弱い側が主張を取り下げないなら、何らかの覚悟を要求されることになる。映画ならば、主張を通して妥協しなかった主人公が、新たな地を求めて去っていくシーンで終わりとなるだろうが、現実では、生活が続いていく。頑張って主張を通したとしても、食い詰めるなど現実的な不利益が身に降り掛かってくるとあっては、「丸く」収めて、やけ酒を飲みながら愚痴るだけか。

  ワンマン経営者がいる会社に勤めた経験がある人なら日常的に、ワンマン経営者の気に入らなかったり、逆鱗に触れたとかで、謝罪を要求された経験があるだろうし、他の社員が謝罪させられている光景を見ているだろう。従属だけを要求される会社の中は中世のようであり、ワンマンに忠誠を尽くす人間だけが出世したりし、黙って見ているだけの多数の社員は、自分に火の粉が降り掛かってこないように気を使う。

 主張が対立したまま、立場の弱い側に謝罪させてケリをつけた場合、その謝罪が表しているのは、主張の当否ではない。謝罪させることで、謝罪した側に非があったと見せ、謝罪させた側の主張が正しかったと見せる。従属関係を見せつけて、相手と第3者に力関係を確認させる。主張の当否に関係なく、相手を屈服させて謝罪させるのは自分らの力を確認することでもあり、甘美な心持ちにさせてくれる体験かもしれない。

 ぐっと我慢して謝罪しても、全てが元通りになるとは限らない。力関係で従属させただけということは双方ともに知っており、わだかまりは双方に残る。従属する側は更なる従属を意識し、自分を押し殺して生きていくという気持ちになるかもしれない。それは、力関係に屈服して、自分を大事にしなかった人間の当然受けるべき屈辱でもある。