望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

阪神大震災から25年

  加藤周一さんの新聞連載をまとめた「夕陽妄語」(全3巻)が筑摩書房で文庫化され、裏表紙には「二十世紀日本を代表する知識人・加藤周一が四半世紀にわたって朝日新聞に連載した時評エッセイ。世界の中での日本を考え、過去と未来を見据えながら同時代を読み解き〜」とあり、サイトの紹介によると「単行本未収録分を含めた完全版」だという。

 95年2月には阪神大震災について論じていた。日本は世界有数の地震多発国であり、地震に伴う様々な被害を経験している国でもあるので、95年からの25年間に、地震に対する行政の備え、救援体制はさぞ整備されただろうと、95年に書かれた文章を読んでみた。すると、阪神大震災の後に各地で発生した大地震にも当てはまるような指摘があった。

「全貌の明らかでない事態について、つり合いのとれた議論をすることはできない。しかし神戸の大地震は、少なくとも一つの鋭い対照を示していた、と私は考える。すなわち一方では、行政の事前の準備不足と事後の非能率が際立ち、他方では、市民の自制心と秩序だった行動が鮮やかに印象的であった」

「日本国民には、みずからの生命財産の安全保障に関して、みずから税金を払って維持する政府と役人に、多くを期待しない習慣がある。また同時に共同体の成員相互の無償の扶助を当然とみなす価値観もある。政府ののろまさに対して激怒し、権利を強く主張するということがない」

「他方、無償の奉仕者(いわゆるボランティア)」に対しては、限りなく依存する傾向もある。ということは、奉仕の義務をもつ役人と、義務をもたない『ボランティア』とを、鋭く区別しない、ということであろう。おそらくそのことから、危機に臨んでの国民の力も出てくると同時に、日常における危機対策の無力も出てくる。日常における危機対策の最大のものは、国民の生命財産の安全保障のために現実的な政策をとり得る政府をつくることである。現実的な政策とは、いうまでもなく、安全を脅かす多くの要因のおこり得る確率の大きさに順って、対策に投じる資源・人員・予算を配分する政策にほかならない」

 大規模な地震では地元の役人の多くも被災者になるとともに、献身的に活動する人々が多いことも確かなので、中央の役人と同一視した批判はできないが、事前の準備不足と(結果として現れる)事後の非能率は、現実の課題として地震のたびに浮かび上がるのは確かだ。大震災を含む多くの地震を経験しても、行政の速やかな対応システムが万全とは言い難いのが実態だろう。

 被災者の自制心と秩序だった行動は阪神大震災の後に各地で発生した大地震でも同様に見受けられた。大地が揺れ動くことに対して人間は無力であることを、多くの地震を経験して育つ日本人は知っているから、自制心を失わないのかもしれないが、対応システムの構築を政府・行政に要求することを自制するのは間違いだろう。人々は行政も自然に対して無力だと見ているから要求しないのかもしれないが、大きな地震が全国どこででも起きることを前提とした行政の対策システムは、いまだに構築されない。

 この25年間、日本では何が変わり、何が変わらなかったのか。日本人はどう変わり、どう変わらなかったのか。加藤周一さんの「夕陽妄語」は様々なことを考えるヒントを与えてくれる。