望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

紙幣が突然使えなくなった

 数年前に、世界第2位の人口を有し、現金取引が大半のインドで政府が突然、使用されている通貨のうち最も高額の1000ルピー紙幣と次に高額の500ルピー紙幣を即日廃止すると発表。この2種類で流通現金の85%を占めているというから、現金取引の禁止に近い措置だ。新しい2000ルピー紙幣と500ルピー紙幣を発行、交換するとされ、人々は銀行に押し掛けた。

 日本で例えるなら1万円紙幣と5000円紙幣の使用を政府が突然停止したようなもので、大混乱は必至。クレジットカードが普及し、電子決済が一般化している社会なら、紙幣の使用を政府が突然停止したとしても、日常生活への影響は限定的かもしれない。だがインドはクレジットカードが普及しておらず、現金での取引が主流。

 なぜ、こんなことをインド政府は行ったのか。首相は腐敗防止と偽造紙幣や資金洗浄対策のためだと説明した。脱税や汚職、犯罪などにより現金で溜め込まれているブラックマネーの規模がインドでは国内総生産の最大3割に達するともされ、報道によると、政治家や資産家が課税逃れのために現金をため込む不正蓄財が横行しているという。

 新紙幣への交換を強制することで、そうしたブラックマネーを使えなくしたり、あぶり出すことが狙いのようだ。そのためには一般の人々にも紙幣の交換を強制し、多少の混乱が起きても仕方がないということなら、インド政府は思い切った決断を行った。ブラックマネーを金や宝石などに逃避させないためには突然実施することが不可欠だろう。

 印刷物である紙幣が、例えば1万円などという交換価値を有するのは、第一に発行主体の政府への信任があること、第二に、人々が互いに紙幣に交換価値があると信じることが必要だ。さらに、紙幣が有する交換価値が将来も維持されると人々が感じることも大切で、インフレが激しくなると人々は紙幣を早く手放そうとする。

 政府が発行すれば紙幣は必ず信任を得ることができるわけではない。自国通貨よりドル紙幣を人々が信用している国があるというし、冷戦崩壊後の東欧諸国では独マルク紙幣が自国紙幣より信用された。交換価値を溜め込むのが紙幣だと考えれば、溜め込んでいる間の目減りが少ない紙幣を人々が選ぶのは当然だ。

 どこの国にも規模の大小はあれ闇経済は存在するから、各国政府は課税を強化して税収を増やしたいと考えるだろう。しかし、紙幣の流通を突然停止するという方法は行わない。ブラックマネーをあぶり出して税収を増やす効果より、経済を混乱させる弊害のほうが大きいと考えるからだろう。インド政府の大胆な試みが、闇経済に打撃を与えて経済構造を「クリーン」にしたのか、混乱を拡大させて経済にダメージを与えたのか、興味深い社会実験だ。