望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

努力して期待を高める

 年末ジャンボ宝くじの発売日に東京・銀座の販売所に大行列ができ、マスコミがこぞって報じるというのは定番のニュースだ。どこで買っても当たる確率は同じはずだが、全国各地に人々が押し掛ける売り場が存在する。その売り場で買ったということで、当たる確率が上がったと信じたいのだろう。

 当たる確率を上げるため神仏などに祈願し、買った後も宝くじを神棚に祀ったり、日光に当てたり、招き猫など開運グッズと一緒にしたりと様々な「努力」をする人もいるそうだ。そうした行為が当たる確率に影響を及ぼすことはないが、当たるかもしれないという期待を上向かせる効果はある。

 宝くじの当たる確率を、買う側が高めることはできないと誰もが理解しているはずなのに、当たるという期待を少しでも高めようとする人々。無駄な行為だと知りながら、いや無駄な行為だと知っているから、自分が何かの「努力」をすれば報われ、当たる確率が上がると信じたいのかもしれない。

 こうした心理は目新しいものではない。例えば、キリスト教の神は最後の審判で、救済される人間と救済されない人間に分け、その判別は既に決定しているが、人間は知ることができないという考えがある。神は超越した絶対的な存在であり、人間は神の決定には関与できないので、救済を願っても人間には何の手がかりもないということになる。

 それでも絶対的な神を信じる人は、自分が救済されるとの期待を持ち続け、その確信を少しでも強めるために、現世で神に与えられたはずの務めに励むしかない。そう生きても救済されるかどうかは判らないのだが、期待を持ち続けるためには、救済されるに値する生き方を自分に課すしかない。

 「どうせ当たるはずがない」と宝くじなら買わないという選択があるが、当たる確率はゼロになる。これは、どうせ救済されないと好き勝手に生きることと同じに見えるが、神の決定を人は知ることができないので、救済される可能性はないとはいえず、確率はゼロではない。

 当たる確率が極端に低いのに宝くじを買い、救済されないかもしれないのに絶対的な神を信じる人々。自分が決定に関与できないからこそ、何らかの「努力」を為すことにより期待を高め、また、救済されるにふさわしいとの確信を維持するしかない。そうした行為が人生に彩りを与えたり、前向きの気持ちにさせる面もあることは確かだから、当たらない宝くじを人は買い続ける。