望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

自然との共生と温暖化

 人と自然との共生という概念は良いことだとみなされているようだ。これは1980年代に現れた概念で、「昔の日本人は自然と共生して生きていた」などと賛美されたりする。だが、自然と共生するしかない条件下に生きてきたのが実態だろうし、燃料にするために木を伐り、畑を荒らす動物を容赦なく駆除していただろうから、無邪気に昔を賛美するのは無理がある。

 自然との共生は環境省も打ち出し、「低炭素社会・循環型社会・自然共生社会の統合」なんて大風呂敷を広げている。人も生態系の一部であると謙虚になって、経済的利益に偏重した成長政策からの転換かと早合点したくなるが、成長の停滞が続き、行き詰まって模索しているというのが実際か。

 生物多様性維持や自然再生事業などで持続可能な生態系を構築することが、自然との共生の行政的な解釈のようだが、自然との共生という概念は一般的には、もっと広い意味で使われている。過密で人工的な都市生活環境から逃れて、豊かな自然に囲まれてのんびり暮らすとのイメージもあるようで、自然との共生には都市生活者の願望も含まれているのかもしれない。

 だが、自然と共生して生きることを人が求めたところで、自然は人に対して特別な配慮をするはずもなく、各種の自然災害は常に人を襲う。それも自然との共生であるだろう。さらに、豊かな自然の近くで住むなら様々な昆虫や動物、鳥などが庭や畑を荒らし、家屋内にも入ってくるだろうし、遭遇して危害を被ることもあるかもしれない。それも自然との共生だろう。

 自然や共生という言葉を善だとする人なら、自然との共生は無条件に善きことと見なすだろうが、自然は時には過酷であることを理解している人なら、自然との共生が簡単なものではないと見るだろう。さらに、人は農耕などで自然を作り変えて生存を続けてきた歴史を想起する人なら、自然との共生とはガーデニングに似た自然愛好の一種と見なすかもしれない。

 何が潜んでいるのか分からない薮よりも、手入れされた芝生や樹木などが広がる「自然」を人は好むというから、共生する対象の自然もおそらく人為的な自然なのだろう。ここに、自然との共生という言葉が都合よく使われる仕掛けがある。自然や共生という言葉の意味するものをいちいち確かめる人は少ないだろうから、人為的な自然と人為が及ばない自然の混同が紛れ込む。

 地表であれば人は自然をつくり変えることができるだろうが、地球規模の自然に対しては無力であるから、共生せざるを得ない。さて、温暖化現象は人為的なものだからCO2排出削減で制御すべきだとされるが、温暖化現象が自然現象だとしたならば、人が制御することは困難だろう。人為的な現象だから温暖化と人の共生は否定されるのだろうが、自然現象ならば人は温暖化と共生するしかない。