望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

人間となりたまいし

 大雪に見舞われた1936年2月下旬の東京で、青年将校に率いられた陸軍兵士ら約1500人が、「尊皇討奸」をかかげて決起したのが二・二六事件。国家改造の断行を要求し、総理大臣官邸、大蔵大臣や内大臣らの私邸、各新聞社、警視庁、陸軍省参謀本部などを襲撃・占拠したが、反乱軍とされ、原隊復帰の奉勅命令が出され、鎮圧された。

 信頼していた側近が殺傷されたとの報に天皇は激怒し、当初から反乱軍を賊軍とみなし、反乱部隊の鎮圧を求め、「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接、近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とまで言い、徹底鎮圧を指示したという。

 当時は天皇が絶対的な存在であり、天皇制が日本の国体の中枢にある存在と見なされていた。決起した軍人らは、いわゆる君側の奸を排除し、政治体制を一新することで腐敗を正し、東北などの農村の困窮を救うことなどを掲げたのだが、彼らの意向を当時の天皇は問題にしなかったと伝えられている。

 そうした天皇の判断に疑問を呈し、人間としてではなく「神であらせられるべきだつた」と批判するのが三島由紀夫。有名な言葉が「などてすめろぎは人間となりたまひし」(『英霊の聲』)。

 こうした天皇(神)に期待する見方が成り立つには、①神は人間的な感情には支配されない、②神の判断は公平である、③神の判断は大局的な見地からなされる、との前提が必要だ。そこに、神は民の「至誠」に応えて判断するとの期待が加わるから、期待に反した神の判断に対しては激しく落胆することになる。

 「至誠」とは主観的な判断であり、公平な判断が何であるかも主観に左右されがちだ。つまり神(天皇)の判断が大局的に公平であったとしても、別の判断を期待していた人間にとって、それは期待に反した神の判断ということになる。そこに、神の判断を人間が批判できる余地が生じる。

 二・二六事件関係者を天皇の御名により反乱者として処断した態度に天皇の人間的弱さがあり、頼りにする重臣達を殺傷した行動を天皇が非難し、天皇人間性によって処断したことは間違いで、天皇は公平無私の神格的な処断をなすべきだったという見方からすれば、「人間となりたまいし」と嘆くことになる。

 人間を神格化すると、その人間に神として振る舞うことを要求するようになる。人間的感情を露わにする神は神話では珍しくないが、それは神格化された人間には許されない。神格化された人間は人々の過大かつ様々な期待を押し付けられるが、全ての期待には応じられない。神に「裏切られる」人も出てくるが、そこで神を批判するためには相手を人間だと見ることが必要になる。