望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

2つの「戦場」

 戦場とは戦争が行われている場所のことで、戦争を行っていない国には戦場は存在しない。だが、反政府組織などによる民間人を巻き込んだ破壊活動が活発化している国では、日常の生活空間で戦場と同様の惨劇が起きることがある。破壊活動を仕掛ける側にとっては政府が支配する空間は、どこでも戦場なのだ。

 戦争とは国家と国家が武力を行使して戦うことだが、非政府組織と国家が武力を行使して争う非対称戦争が珍しくなくなった現在、世界で戦場と化し得る場所は増えている。そうした日常空間に出現する戦場では、政府側(警察や軍)は日常の法を適用しようとするが、非政府組織は戦場の論理で行動し、政府側も戦場の論理に傾いたりする。

 「戦争のはらわた」(1977年。サム・ペキンパー監督)は第二次大戦下、独ソ戦の戦場で、ソ連軍の猛攻にさらされているドイツ軍の、組織になじまないが実戦では強い小隊長が主人公。後退を余儀なくされる戦場で味方に裏切られ、部下を失った小隊長は、卑劣で実戦能力の低い自軍の指揮官を捕まえて強制して連れ出し、最後の戦闘に臨む。

 「アルジェの戦い」(1966年。ジッロ・ポンテコルヴォ監督)は、フランスの植民地アルジェリアでの独立闘争を描いた映画。アルジェのカスバを中心にFLNアルジェリア民族解放戦線)の暗殺、爆破などの破壊行動と、押さえ込むために投入されたフランス軍の、拷問や爆殺など容赦のない対応が描かれる。

 2つの映画は、それぞれの戦場と、そこで生きる人間を描く。「戦争のはらわた」はスローモーションを多用して破壊の凄まじさを演出する。「アルジェの戦い」はドキュメンタリータッチで、劇映画を感じさせる演出は控え気味だ。

 誰かを殺傷すれば法により罰せられるのが平和な日常世界での規範だが、戦場には戦場のルールがある。過酷な植民地支配を終わらせるための独立闘争では、日常空間全てが戦場であり、植民地支配者の法は抑圧の装置でしかない。そこでは、独立を目指す全ての破壊活動は肯定される。

 国家間の戦争による戦場での個人は軍という組織の構成要素でしかなく、平和とされる日常に現れる戦場における個人はテロリストとされる(革命が成功すれば英雄になる)が、テロリストであれば個人の能力が関わってくる。「戦争のはらわた」に現れた実戦に秀でた小隊長は「アルジェの戦い」の戦場に現れたとしても、有能な戦士であっただろう。