望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

占いと運命

 例えば、星座占い。1年を12に分けているが、日本の人口を12等分すると、それぞれ1000万人強になる。すると、例えば水瓶座の1000万人の人々が、同じ月の同じ日に同じような運命にあるということになる。中には、おみくじよろしく、異性運やら金運やら仕事運やら細かく書いてあるものもあって、同じ日に同じような体験を1000万人がしている? そんなばかな。

 例えば、手相占い。運命線やら生命線、頭脳線のほかにもいろいろあって、その人の運命を物語っているそうな。手の平を見て、「この線からそんなことが読み取れるのか、こっちの線にはこんなことが書いてあるのか」と不思議な気になるが、運命というものがあったとして、それがなぜ手の平に記されていなければならないのか。

 手相占いについては簡単に検証できる。ある人間の手相を占ってもらい、その人のその後の人生を対比させて、占った通りだったとすれば手相見の先見性は明確にアピールできるはずなのに、21世紀の今日まで手相見がそんなことをしないのは、手相とその手の持ち主の人生には関連などないからだろうな。

 例えば、人相占い、カード占い、八卦見、おみくじ……。占いは数々あれど流行り廃れもあって、時代の気分に乗ったものがウケる仕組み。運勢なんて誰も信じてはいまいが、運勢がいいねと言われると楽しくなるのは誰でも同じ。ゲームの一種として楽しみこそすれ、真剣に受け取る人はいない。

 逆に言うと、もしも運命があるとして、自分の運命に直面する勇気のある人がそう多くいるのだろうか。運命を本当に予知できる占い師がいたなら、その占い師は多くの客を期待できないかもしれない。

アメリカの下駄の雪

 こんなコラムを2003年に書いていました。

望潮亭主人「また、酔っぱらっているね」

酔っ払い 「不況になって急に、この国が武ばってきたのは何でですかい?」

主人   「これまでなら、金を出して済ませて来たものが、懐具合も厳しくなって、そうもいかなくなってきたんだな。それでこの国は、兵も出します、汗もかきます、血も流しますから、金は出せないけどフツーの付き合いをさせて下さい、ってところか」

酔っ払い 「それにしては、威勢よく煽り立てている連中が目に付いて仕方がねえ」

主人   「国家主義者が軍事優先国家にしたがっているのに、マスコミも何故か腰が引けてキチンと批判できなくなっている。アメリカの圧力をまさに渡りに舟として、以前ならマイナーな扱いでしかなかったような連中が日本軍の再構築をぶち上げている」

酔っ払い 「それじゃ、日本は戦前のような社会になるんですかい」

主人   「そうは、なれないだろう。アメリカのコントロールできない国に日本がなると、アメリカにとっての脅威はイラクやイランの比じゃない。それこそアメリカの最大の“敵”になる。アメリカの傘下を脱した日本軍の独り歩きはアメリカの容認できるものではない。そうなったらアメリカは本気で日本を潰しにかかるだろうな」

酔っ払い 「わあー、戦争だ。この前の借りを返してやる」

主人   「無理さ。中東の石油はアメリカが押さえたし、シーレーンも日本単独では確保できまい。食料だって輸入に頼り、逆に製品の輸出はアメリカ市場に頼っている」

酔っ払い 「だから日本も核を持つしかない。そうなればアメリカもうかつには動けなくなる。日本の技術力ならすぐにでも持てる」

主人   「日本がアメリカの傘下を脱した時、核を持っているとアメリカに対して使用する可能性があるから、アメリカは日本が独自の核を持つことは絶対に許さない。ロッキード事件みたいなスキャンダルを仕掛けて、核を持とうとする政府をつぶすだろうな」

酔っ払い 「すっかり酔いが醒めちまった」

主人   「だから、アメリカの後をどこまでも付いて行きますと言い続ける以外に、日本の国家主義者が軍備増強を進める道はないのさ」

つけ足し主義

 ロシアや中国は最近、民主主義や自由など欧米の価値観を受け入れることへの反発を隠さなくなった。ロシアや中国には独自の歴史的に培われた価値観があり、それを優先すべきであるとする。もちろん、そこには民主主義や自由など欧米の価値観を受け入れたなら、現在の政治体制が揺らぎ、独裁的な権力の維持が難しくなるという現実がある。

 日本は民主主義や自由など欧米の価値観を1945年以来、社会の基本として受け入れた。日本にも独自の歴史的に培われた価値観があるのだが、それと欧米の価値観は激しく反発し合うことはなく、かといって欧米の価値観ですっかり日本社会が塗り替えられたというわけでもなく、日本独自の価値観と欧米の価値観はうまく「棲み分け」ているように見える。

 日本と現在のロシアや中国を比べると、ロシアや中国の独自の価値観のほうが日本の独自の価値観より強固なように見える。だが、欧米の価値観を受け入れながら揺るがない日本の価値観のほうが強固であるかもしれない。あるいは、政治制度だけに欧米の価値観を入れ、そのほかは独自の価値観を維持した日本の歴史的な、ある種の成熟の成せることであったかもしれない。

 外国からの価値や制度の導入について、日本は積み重ね主義、つけ足し主義だと加藤周一氏は論じた(「日本文化の特殊と普遍」=渡辺守章氏との対談、1980年。『加藤周一対話集①』所収)。関連する個所を以下引用する。

 ・日本で「能・狂言と初期の歌舞伎があるところに18世紀ころから人形劇が出てくる。ところが演じられる場所は移るにしても人形劇によって能・狂言が駆逐されることはない。前からあるものに新しいものをつけ足していくわけです。歌舞伎でも近松のころの浄瑠璃とは違った形の忠臣蔵などが加わってくる。さらに時代が下ると新劇まででて来て、いまや能もあれば人形劇もある、歌舞伎もやっていれば、新劇や前衛演劇もやっているという事態になった」
 ・「どんどん足していって、何にも消えない、一度できたものはね」

 ・「こういうことは、いろんな芸術のジャンルでも見られる。つけ足し主義、積み重ね主義であって、決して入れ替え主義じゃないが、もっと根本的には、価値の体系が入れ替わらないということだ。前の価値体系に新しい価値が加わって、価値が重層的になるだけだ。
 日本にも大きな制度上の断絶はあった。たとえば明治維新とか1945年。しかしそのたびに、新しい価値体系によって支えられた新しい制度が、古い価値体系によって支えられた古い制度に入れ替わったというんじゃない。制度は変わるかもしれないが、価値は重なっていくことがある。
 ・このことは、外国からの価値や制度の導入を容易にする。新しい制度を入れるときに同時に新しい価値も入れると、古いものとの間に対決が起こって、どちらかを拒否せざるを得なくなる。ヨーロッパがそうだ。つけ足し主義で、足りないところを外から入れると平和裡に導入が行われる。中国では近代化がどうして遅れたか。近代化すると、近代的な価値体系と制度が古いものと対決して血を流すようになるからだ」

 ・中国では近代的な価値体体系と制度が「いったん入ってくると徹底的に入ってきて、以前のものがずるずると生きのびることはない。中国型とヨーロッパ型が似ていて、日本型がその点では違う」

 日本が1945年以来、欧米の価値観を政治制度に受け入れたのは、明治以来、欧米の法体系、学問、文化などを積極的に受け入れて来たという下地があったからだろう。ロシアや中国には独力で近代化(欧米化)を実現できなかった過去があり、それが欧米の価値観を受け入れることへの反発につながっているのかもしれない。

市中引き回し

 「市中引き回し」を喜ぶ精神とは何だろうか。昔は刑罰として、市中引き回しのうえ打ち首あるいは磔ということになり、当人および“観衆”に“悪行(秩序紊乱)の報い”を思い知らせるという意味があるのだろうが、さて、現代においての市中引き回しとは、さらし者にすることの意味であり、それこそ興味本位の大衆の感情におもねった発想から生まれてきたものでしかない。

 自分の子が殺人をしたからといって親も連帯責任を負わねばならないことはない。親子であろうと別人格である。落語の言い回しを借りると、「子がイモを食ったら、親が屁をするのか?」というところ。日本には「親の顔を見てみたい」という言い回しがあり、特に未成年者が残虐な犯罪を犯した時には、どういう育て方をしたんだろうとの興味から家庭環境が暴かれ、その家庭のどこか特異的な部分に注目し、「育ちが悪いから、あんなことが起きたのだ」と理解できた気がして、いつの間にか“観衆”の興味は次の事件に移る。

 鵜の目鷹の目で見ると、どんな家庭にもどこかにおかしなところはある。例えば、大きくなっても母親と手をつないで歩いていたというようなことでも、事件が起こった後では特別なことのようにはやし立てられる。自分の子供の24時間の行動を把握している親などいないし、子供は親の目から隠れて行動する部分を増やしていく。それは自然なことだ。

 仮に親を市中引き回しにしたなら、未成年者の残虐な犯罪は減るのか。親から子への管理は強まろうが、それを抑圧と感じる子が増えて、想像もつかない形で反動がどこかに出てくるだろう。それを受けて“観衆”は親の顔を見たがり、政治家はまた、親を市中引き回しにしたがる。

 おそらく数年置きに同じようなことが繰り返され続ける。管理を強めることによって防ぐことができる部分は犯罪においてはごく一部だろう。

税金を食いものにする奴ら

 こんなコラムを2003年に書いていました。

 バブル崩壊後の“失われた10年”と、なにか他人事のような言い方で括られる期間に何が行われ、また、何が行われなかったのか。

 この間、構造改革という言葉が声高に言われたが、どのような構造をどのように変更するのか、その共通理解がないまま、構造改革という言葉が景気低迷の打開策ででもあるようなイメージだけでもてはやされ、政治改革などの言葉と同様、いずれは政治家らの手垢のついた新鮮味の無い言葉と成り果てる。

 失われたという10年に何が行われたのか。

 最初は住専だった。金融機関が倒れると金融不安が生じ、「国民皆さんの生活も大変になりますよ」てな脅し文句で、バブルに踊った連中の土地投機の尻拭いを公的資金つまり税金で行った。世間の反発が強まると、それではと北海道拓殖銀行を倒産させ、「ねっ、困るでしょう」と意識させておいて主要銀行への公的資金注入=税金による経営支援を行った。その一方では、景気対策として公共事業乱発などにより財政赤字は急拡大した。

 愚かな経営者らがおかしくした銀行を公的資金(税金)で支え、土建屋(ゼネコン)や不動産屋に税金で仕事を与え、遂には再生機構なる機関を作り、企業そのものを税金で支えようとし始めた。もちろん、この間も、以前から税金を食いものにしてきた特殊法人は安泰のままである。

 国家予算の6割程度しか税収のない日本では、この先も借金(国債)に頼らざるを得ない。莫大な赤字が既にあるが、「国民の資産が1400兆円あるから」などという言葉も聞こえてくる。隙を見て、国民の資産で国家財政を支える腹づもりだな。公共サービスを有料化し、増税し、インフレも辞さないというところか。

 カモは骨までしゃぶられる。中産階級の解体と階層固定が進む日本で、大多数となる中低所得層が政治家、官僚、経済人に「税金を食いものにするのを止めろ」と言い、止めさせるように行動しなければ、いつまでも税金は食いものにされたままだ。

国旗の意味

 米国の国旗である星条旗は、左上にある白星が州の数(現在は50)を示し、赤白13本の横帯は独立当初の13州を示す。人々は星条旗に向かって右手を胸に当て「忠誠の誓い」を唱えることが慣習となった。誓いの文言は「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に忠誠を誓います」などと訳される。

 星条旗は米国の国家統合の理念を示すものであり、米国の人々の自由と正義の確保と分割せずに統一を保つこと、さらに共和国であることを人々が星条旗に向かって誓う。つまり、星条旗は米国の自由と正義と統一と共和国の象徴であり、単なる国家の象徴ではない。国家形成の理念は国により様々だが、何らかの理念を国旗で表現していることが多い。

 フランス国旗は青・白・赤の三色旗(トリコロール)で「自由・平等・博愛」を表し、イタリア国旗は緑・白・赤で「国土と自由、雪と正義や平等、愛国者の血と情熱や博愛」を表すとされる。ドイツ国旗は3色で横分割され、黒・赤・黄(金)は「勤勉・情熱・名誉」を表し、オランダ国旗も横三分割で、赤・白・青は「国民の勇気、神への信仰心、祖国への忠誠心」を表すとされる。

 ロシア国旗も横三分割で、白・青・赤は「高貴と率直と白ロシア人、名誉と純潔性と小ロシア人、愛と勇気と大ロシア人」を表す。ソ連時代には「鎌と槌の赤旗」が国旗だったが、ロシア連邦の成立で帝国時代の「白・青・赤」の三色旗が復活した。ちなみにソ連の国旗の鎌は労働者階級、槌は農民、赤旗社会主義共産主義を表すとされる。

 中国国旗は「五星紅旗」と呼ばれ、赤は共産主義や革命、大きな星は中国共産党、小さな4星は労働者、農民、知識人、愛国的資本家を表す。イギリス国旗は、イングランドスコットランドアイルランドそれぞれの十字架を組み合わせたもので連合王国であることを表す。バングラデシュ国旗は緑地に赤丸で、緑は国の活力と若さと国土、赤丸は太陽と独立のために流された血を象徴する。

 北欧のフィンランドの国旗は白地に青の十字架で、青は湖沼と澄んだ空、白は清らかな雪を象徴し、スウェーデン国旗は青地に黄の十字架で、青は湖、黄は黄金または輝く太陽を象徴し、ノルウェー国旗は赤字に白と青の十字架で、赤は情熱、青は海と国土を表すとされる。3国に共通するのは旧宗主国デンマークの国旗をベースにしていること。デンマーク国旗は赤字に白の十字架で、赤は祖国愛、白はキリスト教への信仰を表し、世界最古の国旗ともされる。

 日本国旗は、中央の赤丸が太陽、紅白の色がめでたさを表すとの解釈が多いようだが、公式な説明はない。日本の国家形成に理念があったなら、日の丸に何らかの意味が付与されていたのだろうが、明治維新に現代でも通用する普遍的な価値観(理念)は乏しく、国旗として法制化する時にも、何らかの理念を国旗で象徴させようとの試みはなかった。理念なき国家には理念なき国旗がふさわしい。

終わった人なのに

 こんなコラムを2003年に書いていました。

 石原慎太郎氏に都民は何を期待しているのか。石原氏の強者としての物言いがウケており、投票した人が自己投影しているのではないかという疑いがなきにしもあらずだが、政策としての何が高い支持に結びついているのかが見えてこない。

 石原氏を首相候補に推す声もあった。人気で小泉氏に対抗できるというだけの思い付きのようだが、首相としての適性には触れられない。石原氏は国会議員を25年間続け、何もできず、最後は議場で啖呵をきって議員を辞任した人物である。国政において石原氏は無力だった。

 都知事になってから石原氏は煤入りのペットボトルを手にディーゼル車の排ガス規制を主張するが、石原氏が運輸大臣をやっていた時にもディーゼル車の排ガスはひどかったのであり、その時に規制を行えばよかった。なぜ、そうしなかったか。石原の頭の中には排ガスのことなどなく、都知事になってからのブレーンにそうした問題意識を持つ人がいただけだ。

 高層ビル建築ラッシュの過密都市・東京をこれからどうするのか。財政赤字はどうするのか。防災対策は進んだのか。国際都市としての東京から中国人だけを排除するのか……石原氏の頭の中にこうした問題意識の一つでもあるのだろうか。

 石原氏に対しては、小説家・石原と政治家・石原を都合よく使い分け、責任逃れをしているとの批判が以前からある。都知事になってからの例で言えば、重度の身体障害者を見て「生きている意味があるのか」というようなことを言った。生の意味を問うことは小説家としては許される疑問だろうが、都知事として視察しているときは政治家であり、許される発言ではない。

 都知事になってからの石原氏は、政治家・石原が二つに分かれ、都知事・石原と政治家(国政)・石原が気ままに現れる。そこに小説家・石原も加わり、はぐらかし、責任逃れの技に磨きがかかった。都知事、政治家(国政)、小説家の立場を自由に移動するので、どんな批判にも反論できる。

 石原氏は政治家としては終わった人物だ。終わった人物が出しゃばっている弊害は大きい。永田町においても、終わった人物が多い。森氏や中曽根氏、宮沢氏、橋本氏、土井氏など有力者とされる連中の大半が終わった人物だ。適当な時期に一線を引退し、正直な回顧録を書くのが特に権力の座にあった者の責任だろう。石原氏よ、金の流れなどを含めて国会にいた25年の正直な回想録を書くことが、都知事の座にいることよりも日本の政治に寄与できるのだぞ。