望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「愛国心」を取り返せ

 こんなコラムを2006年に書いていました。

 改正教育基本法愛国心を明記し、国歌・国旗法のように、いずれ児童・生徒らに愛国心を強制するようにしようと政治家らが策動している。不思議なのは、愛国心を教育に関してだけ持ち出すことだ。これって「愛国心は政治家の俺らには関係ない話だけど、国民を、従順で政府・政治家らの言うことを良く聞くように、仕立てたい」という狙いがミエミエだ。政治家らは、そんなに「愛国心」が大切だと言うなら、現実問題に即して彼らの「愛国心」がどういうものであるかを説明すべきだ。

 例えば、米国産牛肉の輸入再開。アメリカの圧力に押し切られたことは明白だが、「愛国心」を感じさせる発言は日本の政治家から出てこない。「愛国心」推進派はアメリカのごり押しに対して、「けしからん。日本人なら国産牛を食え」とか「アメリカの機嫌を損ねないのが日本には大事」など、彼らの「愛国心」に基づく見解を表明すべきだ。

 例えば、富裕層の海外移住問題。納税は日本国民の義務とされているのに、日本国内で稼いでおきながら、所得税相続税回避のため海外に居住して日本での納税を行わない。日本に見切りをつけて完全に移住するなら、それも一つの生き方かもしれないが、年に何カ月か海外に居住して日本での納税を免れるという行為にも、「愛国心」に熱心な政治家らは黙ったままだ。「愛する日本を捨てて出て行く奴らが、日本で稼いでおきながら税金を誤摩化すのは愛国心に欠けている。富裕層には愛国心の教育が必要だ」ぐらいは言わなくちゃ、彼らの言う「愛国心」が公平なものではないと見えて来る。

 愛国心という言葉は、政治家が都合よく持ち出す言葉だ。国というものが、いかがわしいことをよく行う機構であることを感じ取っている人たちは、愛国心という言葉に拒否反応を起こしてしまう。つまり愛国心という言葉は厳密な検証にかけられることもなく、一方が自分らに都合のいいように使い、他方は頭から拒否してしまう。双方が漠然としたまま使っている言葉であるため、この愛国心という言葉は融通無碍で、時には帰属意識の確認(強制)を意味する。

 「国」というものが「愛」の対象になるのだとすれば、その「国」「愛」はどういうものであるのか。根本をよく考えておかなければ、愛国心は民衆を強制する手段になってしまう。愛国心を郷土愛や同胞愛と等価とするならば、愛国心は政治家から「強制される」言葉ではなく、政治家らを「強制する」言葉に転化することが出来る。愛国心に基づいて人々が、無能な政治家・堕落した官僚・腐敗した財界人らを淘汰して行くことが良き日本をつくる唯一の道であるのかもしれない。

信ずる者は、救われない

 2006年のイスラエルの軍事行動は明らかな過剰反応だった。「リタニ川以南はイスラエルが統治すべき」という軍部の暴走を非力な政治家が抑えられなかったというわけではあるまい。チャンスを待っていたところに条件が整い、軍事行動に踏み切る切っ掛けを探していた。そこでシーア派組織ヒズボライスラエル兵を誘拐、「それ、始めろ」と動き出したというところだったか。


 イスラエルが待っていたチャンスとは、イスラムの分裂である。イラクでのシーア派聖地アスカリ廟爆破でシーア派スンニ派の直接的な暴力の応酬が顕在化し、先鋭化した。もはやイスラム教圏内には中立的なポジションの政権はなくなり、どちらかの立場に立たざるを得ず、イランを除く大半がスンニ派政権であることから、各国はシーア派組織ヒズボラへの連帯・支援は表明できない。イスラエルシーア派武装組織を攻撃しているだけだと言い続ける…。


 過剰なイスラエルの暴力は、イスラエルの人々が現実を支配するのは「力」だと身にしみて知っているからだろう。別の言い方をすると、現実の問題、目の前にある問題の解決は人間の手によってしか行うことが出来ないと考えているからだ。さらに別の言い方をすると、神にすがっても現実の問題の解決にはならないと知っている。神の助け・救いなど、ないと知っている。


 ユダヤ人を変えたのはホロコーストと、その後のイスラエル建国だ。ヨーロッパで生きてきたユダヤ人は神に祈ったであろうが、ナチスドイツが敗戦するまで虐殺は止まらなかった。パレスチナイスラエルを建国して直面したのは、自分の身は自分で守るしかないという現実だ。


 「神などいない」と宗教を捨てることは、同時にユダヤ人でなくなることを意味する。宗教は捨てられないので、宗教(神)は現実に対しては無力であることを前提に生きることしかユダヤ人には残されていなかった。現世では神の加護がないと理解すると、戦争に勝つには、軍事力で相手を上回り(できれば圧倒的に)、周到・緻密な作戦で展開することが重要だとなる。


 アラブの人々は、まだ、神の加護を期待しているように見える。イスラム教が聖と世俗を分かちがたい宗教だということもあるが、現実的な軍事力の劣勢から目を逸らすために神を持ち出し、また、現実への憤怒を、いつか加護があると神の名を称えることで埋めているようにも見える。別の言い方をすると、イスラム教徒にとっての神は「現実的」存在なのかも知れない。


 一方は、神は人間を見守ってなどいない単なる祈る対象とし、現実問題の解決は「力」だと行動する。他方は、神が人間を見守っていると信じ、来生を信じて自爆する。そこにあるのは、過去の大量の死によって神の無力さを知った人々と、現在の大量の死の解決・救いを神に求める人々だ。


抵抗する精神

 ロシア軍が国境を超えて侵入してきたことを受けてウクライナは2月24日、国民総動員令を発出し、18歳から60歳の男性に対してウクライナからの出国を全面的に禁止した。ウクライナ国内にとどまった男性が徴用されているのか、自発的な協力を求められるだけなのか詳らかではないが、広範囲の惨禍と大量の避難民という状況に応じて男性たちは行動しなければならないだろう。

 戦争は絶対悪である。だが戦争は世界各地で起き、根絶されることがないのが人間界の現実だ。戦争は絶対悪だから、戦争には関わることを一切せず、戦争が起きて徴用されたなら逃げるというのは有効な個人的な対処法だろう。だが、戦争から逃避する人々が多いほど侵略を行う敵対国に有利に働く。侵略に抵抗することも、戦争から逃げることも個人が判断することだが、総力戦に巻き込まれたなら国家の強制力が強く働く。

 出国が禁止されたウクライナで何らかの手段で出国した男性がいる一方、ウクライナに帰国する男性もいて、「家族や国を守る」ために武器をとってロシア軍と戦うという帰国男性の声が報じられる。帰国して戦うという行動をうっかり愛国心と結びつけて早合点する人もいようが、自発的に帰国して侵略軍と戦う人々の多くはおそらく、ウクライナの独立(主権)を守ることを考えている。

 うっかり愛国心と結びつけて早合点する人は、国家があって人々が存在すると解釈しているのだろうが、それは人々によるレジスタンスが希薄だった歴史の反映だ。さまざまな侵略に人々がレジスタンスを行ったという歴史があるなら、レジスタンスの精神は受け継がれているだろう。レジスタンスは、侵略や暴政に人々が立ち上がって抵抗する精神に支えられている。

 ウクライナは1991年のソ連からの独立後、たびたび政権の腐敗が指摘されたり、親ロシア派と親欧州派の政権争いが続いたりした。そうした中で独立国としての国家意識を人々は形成してきた。腐敗した政権や、対立する勢力の政府が主導する国家に対して人々は厳しい目を向けただろうから、国家の要請や命令にいつでも素直に応じるとは限らない。愛国心ではなく愛郷心が侵略や暴政に対する抵抗を起こさせる。

 国家の主権者は「我々だ」との人々の意識がレジスタンスを支える。また、戦争が総力戦に変化したので人々が戦争に巻き込まれる状況となり、人々の日常生活を破壊する敵に対して抵抗する精神が刺激される。ウクライナがロシアの傀儡国家になることは、ウクライナの人々から主権が奪われるということだ。主権者であることを維持するためにウクライナの人々は戦っている。

 日本では憲法戦争放棄の影響もあるのか、絶対平和主義の声が珍しくなく、リベラル層からは戦争を忌避する声ばかりが伝えられ、戦争を現実的に考えず、侵略されたときの対応については論じることが封印されている印象だ。いつか日本が戦争に巻き込まれた時に、日本人が主権者として抵抗する精神を持っているのかが明らかになる。

真の「亡国」を考える


 8月15日はそもそも何の日だったのだろうか。旧日本軍を誇りに思うべき日なのだろうか、軍部独裁政治を多大な成果があったと懐かしむべき日なのだろうか。8月15日に意味があるのは1945年のことだ。この日は、裕仁天皇玉音放送がラジオで放送され、多くの日本人が敗戦を知った日だ。条件付きで日米が停戦したわけではなく、第3国が調停に入って休戦したわけでもない。日本が無条件降伏したのであり、敗戦したのである。負け戦…。各地で日本軍は武装解除され、日本には米軍が進駐軍として上陸し、日本を占領した。日本が主権を回復するには講和条約発効まで7年も待たなければならなかった。


 あの戦争では多くの日本人が死んだ。中国大陸や東南アジアなどでの戦闘で死んだ者、南方等で餓死した者、日本国内で空襲や原爆で死んだ者…多くの日本人が死んだ。よく聞く言葉に「彼らの死があるから、現在の日本がある。感謝しなければならない」というものがある。感情的には受け入れられやすい言葉なのかも知れないが、実質的には何を示しているかが不明な言葉である。「彼らの死」と「現在」の具体的な相関関係が希薄であり、これは、「現在」を肯定する生活保守主義に戦死者を無理に結びつけようとする意図で作られた言葉である。しかし、この言葉はTVなどで垂れ流される。ぼんやり聞いていると、あたかも現在の日本の経済的繁栄は戦死者がもたらしたものであるかのような錯覚を植え付けられることになる。


 死者には敬意をはらわなければならない。しかし、歴史的評価はまた別である。多くが餓死し、飛行機もろとも特攻(自爆)して死に、あるいは、捕虜になれば助かったかも知れない命を玉砕で散らした。旧日本軍の指導部には大きな責任がある。無条件降伏という敗戦責任と、死ななくても良かった無駄な死を兵士に強いた責任である。


 鬼畜米英だと戦ってきたはずの当の米軍が日本に上陸しても、日本人は組織的抵抗もしなければ、米軍に非暴力の抵抗もしなかった。天皇と同様にマッカーサーをあがめた。イラク戦争時に米国が誇ったように「日本は民主化された」。日本は生き延びることに必死になり、軍事力によるアジア・太平洋支配を諦め、経済面に総力を集中した。その延長上に現在がある。


 戦死者は美化される。美化することによって、国民に死を命じることができるという国家の強制力は維持される。敗戦後の日本人は生き延びることに必死だった。今頃になって戦死者を美化するのは、彼らの死が遠いものになって現実味を失ったことでもある。現実味を失ったから、勝手なイメージを付与して美化するなど戦死者を「利用」できるのだ。


 無条件降伏という恥ずべき「国難」を招いた責任は誰がとったのだろうか。先の戦争を「アジアを解放するため」とか様々な理由をつけて肯定する人々が増えているという。無条件降伏という負け戦を肯定するのだから、世界各地の民族解放闘争を支持するような人たちかと思うと、そこまでの視野はないらしい。むろん平和主義ではなく、かといって、今度は自分らが銃をとって戦場に行きアメリカに勝ってやると勇むほどの覚悟もないらしい。今頃になって戦死者を美化し、戦争を美化したところで、日本が無条件降伏してアメリカの占領下に入ったという歴史的事実は変えられない。


未来は不安

 天変地異や事件事故・犯罪に巻き込まれることや、自分や家族の罹患、家族や近親者の不幸など人が不安を感じる要素は日常に多い。国によっては、活発に活動する武装集団や犯罪組織による襲撃や誘拐などを現実的な不安とする人々もいるし、政治や経済的要因などによる社会の混乱に不安を感じる人々もいるだろう。

 人が不安を感じるのは、①現実に起きていること(現在)、②起きるかもしれないこと(未来)ーに分かれる。①(現実に起きていること)は可視化された不安であり、②(起きるかもしれないこと)は可視化されない不安だ。ウイルスに対する不安は可視化された不安であるが、必ず感染するとはいえないので、感染するかもしれないという可視化されない不安でもある。

 可視化された不安に対しては、事実やデータを集めて不安の対象になる出来事の起きる確率を検討し、確率が高ければ適切に備えることで過剰に不安がることを軽減できる。不安は情緒を刺激し、過剰に反応しやすい。冷静になれないから不安に駆られるのであり、確率を検討することで情緒にとらわれることを抑制できよう。ただし不安から、確率を過大視する可能性は残る。

 可視化されない不安とは、まだ起きてはおらず、起きるかどうかが不明な事象に対する恐れや心配だ。事実やデータが存在しないので発生確率を検討することは困難で、推定するしかない。とはいえ、起きるかもしれないと強く思って不安を感じているのだから、確率を過大に推定する可能性は高く、過大に推定した確率が不安を鎮める効果は薄いだろう。

 可視化されない不安とは、未来に対する不安である。人にとって未来とは一寸先から数日先、数年先、長くても十年先ぐらいまでだろう(人には寿命があり、100年先とか1000年先などのことに現実的な不安を感じることはあるまい)。起きるかもしれないとの現実感が及ぶのが人にとっての未来であり、もし起きたならとの不安がついてまわる。

 そうした未来が不安なのは、現在や過去における多くの問題が未解決のままであることや、悪い状況になるとの予想や予測がマスコミなどによって振りまかれることも影響する。身近な不安を喚起する典型は天気予報で、大雨や熱波、台風、降雪などへの注意を促すのだが、気象災害が頻発していることから、脅かすように強く注意喚起するのが珍しくなくなり、人々の不安を煽ることに貢献している。

 人類が誕生して以来、人々は生存などの不安を日々感じて生きてきただろう。不安を意識するのは人として自然な自己防衛の反応だとすると、歴史とともに対象が変わるだけで不安を常に感じながら生きるのが人類か。不安を過大視せず、不安に押しつぶされないようにすることがバランスの取れた生き方なのかもしれない。

えんぴつで資本論

 こんなコラムを2006年に書いていました。

 薄く印刷してある「奥の細道」をえんぴつで、なぞり書きしながら読んで行く本が売れている。柳の下にドジョウは3匹、4匹……徒然草百人一首など各社は同じ趣向の本を次々に発売してブームの様相だ。「脳トレーニング」ブームに乗って売れたともいわれるが、きれいな字を書く練習をしながら教養を身につけたいとの願望もあるようで、当初の狙いの中高年のほか若年層にも売れているという。なぞり書きという「お手軽さ」と鉛筆を使うという「レトロ感」が奇妙な相乗効果を上げているという見方もある。

 「奥の細道」をもってきたのも成功の一因だろう。誰でも知っている有名な作品だが、実際に読んだ人は少ない。そう考えると、古典はほとんどが対象となる。徒然草百人一首に続いて伊勢物語枕草子方丈記土佐日記竹取物語など候補はいくらでもある。源氏物語だって分冊すれば可能だ。万葉集古事記だって万葉仮名を適度に現代語化すれば、「えんぴつで~」の仲間に入れることが出来よう。鎌倉時代の名僧の著作も、適度に現代語化すれば、仲間入りだ。そうなると平家物語や江戸時代の仮名草子浮世草子も、仲間入りだ。五千円札の麗人、樋口一葉だって仲間入りできよう。ちゃんと読んでいる人は少ないらしいから。日本国憲法も、仲間入りできる?

 名作なら何度読んでもいいものだから読者が多い作品だって、鉛筆で書いて読んでもいい。例えば、夏目漱石芥川龍之介志賀直哉……こうなると、文章がいいものなら全てが対象になる。若者にも購買層が拡大しているのだから古典に限る必要もない。村上春樹村上龍吉本ばなならの現代作家だって対象になる。

 そうなると翻訳物だって対象になる。例えば「えんぴつで共産党宣言」「えんぴつで、空想から科学へ」「えんぴつで資本論」。今は読む人も少なくなっていようし、リタイアした団塊世代安保闘争の昔を懐かしがって、鉛筆でなぞるかも知れない。「当時買ったけど読まずに終わったから、今度は読んでみよう」なんてね。

 翻訳物で、もっと幅広く狙うならシェークスピアあたりか。待てよ、英語学習熱の根強さを考えると、シェークスピアは原語(英語)を筆記体で印刷して、ペンでなぞるというバージョンのほうが日本語版より売れるかも知れない。書いて外国語に馴染みつつ習得しようという需要を狙う。「書いて覚える○○語」という入門シリーズとして各国語で展開できる。題材には、フランス語ならバタイユ、ドイツ語ならグラス、イタリア語ならボッカッチョ、中国語なら水滸伝、ロシア語ならチェーホフ、米語ならケルアック、スペイン語ならロルカポルトガル語ならセルバンテス…なんてのがお薦め。

 なぞり書きしながら内容がどれだけ理解できるのかは知らないが、テキストと解釈という面倒な議論はさておいて、なぞり書きは「始めやすく」、一通り書けば達成感もあろう。各社の仕掛け方によっては一過性のブームで終わらず、書籍の1分野として定着しよう。

 ところで「えんぴつで、四畳半襖の裏張」、これは今でも発禁になるのだろうか。

「美しい」の危険性

 こんなコラムを2006年に書いていました。

 次期首相確実ということで安倍氏に多くの人々・企業・団体が擦り寄っている。こうした光景は「美しい」のか「あさましい」のか、「美しい国」を目指すとか言う安倍氏に感想を聞いてみたいが、聞いても、また、はっきり言わずに誤摩化すかもしれない。美しくない態度だ。


 安倍氏が感じる「美しい」は、どの程度の客観性を持つものだろうか。例えば、安倍氏と同年齢で、同じ時代の空気を吸って生きてきた人々は皆、安倍氏と同じものを「美しい」と感じるのだろうか。同年齢の日本人100万人が感じる「美しい」は一致するのだろうか。そんなことがあるはずがない。「美しい」は、人により、時により、いくらでも変わろう。


 何を「美しい」と感じ、何を「美しくない」と感じるのかは人により異なる。それぞれの主観に関わる部分が多いからだ。例えばピカソらのキュビズム絵画やモンドリアンらの抽象絵画を全ての人が「美しい」と感じるわけではあるまい。「美しい」と感じるのが正解で、「美しい」と感じない人は間違っている、とはいえない。


 絵画などなら理解しやすいのだが、人の生き方や社会のあり方に「美しい」という言葉が絡んで来ると、やっかいだ。そうしたものの中にある「美しい」は、おそらく絵画などよりも、もっと多様であるから、人生や社会を対象に「美しい」という捉え方をすると、ますます主観的になる。例えば、特攻。大義のための自己犠牲を「美しい」と賛美するなら、中東などには「美しい」自己犠牲が数多くある。日本人の自己犠牲は「美しい」が、日本人以外の自己犠牲はテロだなどとするのは、美意識が一貫していない。


 人生や社会を対象に「美しさ」が語られるとき、それは思想である。思想といっても、構築した論理で他を説得しようとするものではなく、己の情緒を拠り所とし、それへの同調を求める種類のものである。だから、気に入らない質問には説明責任を果たそうとせず、自分に都合のいいことだけを言い募る。公的かつ合理的なものであるべき政策に「美しい」という安倍氏の情緒がかぶせられることの危険性について、マスコミは黙ったままだ。「どうせ短命内閣さ」などと放置していると、マスコミが真っ先に情緒的政策への同調を求められよう(すでに同調が始まっている?)。


 何を「美しい」とするかは個人により様々だ。誰か個人の「美しさ」を政治的に実現しようとすると、人々への新たな強制が必要となろう。権力で人々を強制するのは、自由と民主主義を基本とする社会では「美しくない」光景だが、そんな強制を「美しい」と感じるように政府は人々の情緒をも強制するようになって行く?


 「マクベス」の中で魔女が「きれいは汚い、汚いはきれい」と謎をかけるが、日本人も謎をかけられた。政治は個人の美学を実現する道具なのか。その危険性はどれほどか。


 大した努力もなしに最高権力者に上り詰めようとする安倍氏にはぜひ、人間としてのあり方の「美しさ」を、他人への強制ではなく、自身の立居振る舞いで見せて欲しいものだ。