望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





水が欲しいか

 日本各地で外国資本が、水源に近い山林の買収を持ちかけているとする報告書を東京財団が2010年にまとめた。世界的に水需要の逼迫が予測され、水資源の獲得競争が世界で激化し、日本の水も外国資本に狙われているというのだ。その例として、国内の水需要が大幅に増えている中国が日本の水資源に目を付け、買収を画策している可能性があるとか。



 一部メディアが「ええっ、大変だ」と報じた。金持ちになった中国が、日本の水源林に触手を伸ばし、水を中国に持って行ってしまうぞと、危機感を煽る気配もほのかに漂っていた。



 中国では、そんなに水不足なのかとつい納得してしまいそうになるが、どうやって日本から中国まで水を運ぶのかと考えると疑問が出てくる。日本の水源林で水を採取して、コンテナ詰めして港まで運び、船に積み込んで中国に運ぶとなると、中国ではかなり高価で売らなければなるまい。



 別の見方がある。豊かになった中国ではペットボトルの飲料水が売れるようになり、日本の水は日本でボトリングされて、フランス産のエビアンなどと並べて中国で売られるというもの。「日本産」のイメージは良いそうだから。だが、それは日本の業者が日本の水をペットボトルに入れて中国で売ることと同じ行為だ。



 狙いは木材資源だという見方もある。北米などからの輸入材にシェアを奪われて、山から伐採して搬出しても、育林コストさえ回収できない国産材。伐採時期を迎えているものの放置状態の山林も多いと言われるが、そうした山林を買って、伐採して売り払ったり、中国に輸出することが目的だというもの。でも、材木が目的なら、土地まで買う必要はない。



 人口が多い中国で水が逼迫しているなら、現実的な対策は海水の淡水化だろう。実際に中国では海水の淡水化事業が推進されている。問題は、逆浸透膜技術などキーとなる高度技術を中国は持っていないため、日米企業などの協力を得なければならないこと。でも、外国で山林を購入して、水を採取して中国に持ってくるより、はるかに現実的な対策だろう。



 それにね、中国がいずれ、「独自」技術で大々的に海水の淡水化を沿海部各地で行うようになると、温暖化による海面上昇の抑制に効果的だったりするかも。


変化と破壊

 「生態系の変化」と「生態系の破壊」を人類は見分けて区別することができるのだろうか。例えば、ある地域で固有の生物が絶滅した場合、それは生態系の変化か破壊か。絶滅の要因が明確であるなら、変化か破壊かを判断はできようが、複数の要因による複合結果であるなら、どの要因を重視するかで判断は分かれよう。

 人為的に廃棄された有害物や乱獲などによって絶滅したのなら「生態系の破壊」と見なすことは容易だろうが、様々な要因が蓄積して数十年かかって絶滅した場合など、破壊か変化か簡単には判別できまい。客観的な判断が難しい状況では主観的な判断が勢いを得たりすることもある。

 さらに生態系の破壊だったとしても、それは長い時間軸で見ると生態系の変化に含まれる。恐竜の絶滅は小惑星ユカタン半島付近に激突し、その衝撃で広い地表に急激な環境変化がもたらされ、さらに舞い上がった粉塵により気温低下が長く続いたためとされる。これは生態系の破壊であり、環境の破壊でもあるが、新しい生態系や環境に移行したため、地球史からすれば生態系の変化であり環境の変化であろう。

 同じように「環境の変化」と「環境の破壊」の見極めも人類には簡単ではない。環境の破壊は許されないとの認識が広がっているが、環境の変化は人間が許そうと許さまいと人間の都合には関係なく進む。人間の時間軸で認識される変化を人間は環境の破壊と認識しがちだが、人間が環境の破壊と認識するものも地球史で見るならば環境の変化に過ぎない。

 地表の環境は激変を繰り返してきた。人類の歴史は猿人などを含めても1千万年ほどだが、数十億年にわたって超大陸が形成されたり分裂したりと地表の環境は変動し、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返す。人類が繁栄する現在の地表の環境を固定されたものとして基準にすると、環境の変化を破壊だとして危機意識を持つ。だが、人類の都合に関係なく地表環境は変化するので、「環境の変化」と「環境の破壊」の見極めは簡単ではない。

 地球史からすると、生態系や環境の破壊とされるものは生態系や環境の変化に含まれる。人為的な破壊だとしても百年、千年の時間で見ると変化の一つに過ぎない。だが、百年に満たない時間を生きる大半の人間にとって、人為的な要因による変化を破壊と見て、環境や生態圏を保護しなければならないとする。

 環境や生態系は固定されて変化しないものとするから、あってはならないものと破壊を解釈できる。自然を人間の力で制御できるとの思考が根底にある人々だから、破壊を人間の力で止めることができると発想する。だが、環境や生態系の変化ならば、対応することしか人類にはできまい。CO2排出削減で地球環境を変えることができるとの欧米主導による壮大な実験はおそらく失敗するだろうが、失敗だと判明するのは来世紀か(温暖化の危機を強硬に主張した人々の大半は亡くなっているだろう)。





報道とカネ

 政治とカネの問題でメディアは政治家をさんざん批判しますね。ちょっとの疑いでも持たれたならば、説明責任があるだろう! 説明責任が!……と説明を求めます。そうした説明にちょっとでも齟齬が見つかろうものなら、火に油を注がれたかのように「熱く」報道してみせたりしましてね。



 そんなに、カネと縁のない政治を求めるなら、制度を変えるべきでしょう。選挙は完全な公営選挙とし、公設の立会演説会、各立候補者の見解を並列した選挙公報、テレビ・ラジオによる政見放送以外は一切禁止する。そんな公営選挙にして、個人のカネを選挙に使うことを禁止するんですな。



 公営選挙にするということは、各候補者の後援会活動も制限しなくてはなりません。選挙だけ公営にしたなら、結局は後援会を維持できるカネを持っている陣営が有利になりますから。各候補者の条件を均等にするため、後援会の組織構成・活動などにも制限を設け、カネをかけることを禁止しなければなりませんな。後援会は、支持者による完全ボランティアの活動しか許されないことになりそうで。



 当然ながら、地元にも私設秘書を置いて、冠婚葬祭や集会にこまめに顔を出してアイサツ回りを欠かさない……なんてことは禁止です。



 政治とカネを根本的に切り離すためには、選挙を含めて政治活動に個人(候補者)がカネを使うことを禁止することです。政治活動にカネを使えないのですから、カネを受け取ること自体を犯罪とすべきでしょう。もしカネを受け取った政治家がいた場合は、びしびし逮捕すればいい。



 政治とカネの問題だとしてメディアは、その時々に特定の政治家をターゲットにして騒ぎ立てますがね、現行の制度で許容される政治資金のあり方(集め方と使い方)は何か……なんてことには触れませんな。政治活動にカネがかかるということ自体が忌まわしいことであるかのような調子で、潔癖性みたい。メディアはすぐに「正義」を気取りたがるものですから、仕方がないのかもしれませんが。



 完全な公営選挙は実現可能性が低いとなると、政治とカネの関係について世間の関心が高いのなら、整理し直す時期かもしれません。個人の政治活動の何を認め、何を禁止するか、容認された政治活動には個人の資金の投入を認めるのかなどガイドラインを明確化する。そのポイントは、クリーンだけど無能な政治家がいいのか、疑念をもたれるけど有能な政治家がいいのか、政治家観をはっきりさせることでしょうな。



 政治とカネと後援会と言えば、「世襲」の問題にメディアは触れません。例えば自民党の看板となった感のある小泉某、親父さんの後援会を受け継ぎ、政治資金も受け継いだのでしょうが、いったい「相続」した政治資金はいくらになるんでしょうかね。さわやかなイメージの小泉某が、自力で政治資金をゼロから集めたのなら立派ですが、しょせんは親父の七光とあっては幻滅ですぞ。

 政治とカネについてはメディアは大騒ぎしますがね、ダンマリを決め込むのが、報道とカネの問題。以前から噂はあったものの、野中広務氏が官房機密費の使途の一部を明らかにして以来、メディアの政治部が「餌付け」されていたんじゃないかとの疑念がくすぶっています。でもメディアは説明責任を果たさず、黙殺する気配なので、政治とカネのようには世間は「燃え上が」らないかもしれませんな。


「科学」的な将来予想

 人為的なCO2の排出増加が温暖化を招いていると言われ、早急な対策が求められ始めてから、もう何年になるだろうか。IPCCが創設されたのは88年、世界の科学者の知見を集約したという評価報告書は90年に第1次が出され、95年に第2次、01年に第3次、07年に第4次が発表された。京都議定書がCOP3で議決されたのは97年。



 人為的なCO2排出が温暖化を招くと主張する温暖化論者は、科学的に予想される危機に早く対応を講じなければ取り返しがつかなくなると、CO2の排出抑制を主張する。科学的という言葉に一般の人々は、敬して遠ざかろうとする。うっかり疑問を言おうものなら、細かい数字や難解な理論を持ち出され、「さあ反論してみろ」……専門的な領域に引っ張り込まれたなら対応できず、黙るしかない。



 将来予測は「科学」なのか……という素朴な疑問は、「このままでは地球環境が取り返しのつかないことになる」という危機感を伴う発言の前では無力なように見える。100年後に地球の平均気温が○度上昇すると言われたって、現時点では検証不可能だ。それに、100年間には地球上で様々な自然現象が生じ、人間社会も様々な変化を遂げるだろうから、平均気温が上昇しても上昇しなくても、「科学的」説明はつくだろうしね。



 空に国境があるわけではなし、大気は地球表面を循環するものであるから、例えばEUや日本が排出量を削減したとしても、中国などで排出量が増えれば、地球総体の排出量は増える。



 世界全体のCO2排出量は07年で288億トン。最大の排出国は中国で60億トン。これは世界の排出量の20.7%を占め、2位の米国の20.1%を上回った。3位はロシアで5.3%、4位はインドで4.7%、5位の日本は12億トンで4.2%を占めた。

 当時、日本では鳩山首相が、主要排出国が削減するという条件付きで25%削減を打ち出した。世界の4.2%を排出する日本で25%削減するということは、世界のCO2排出量の1%少々を削減するという計算になる。日本で巨額の費用を費やして世界の1%少々を減らしてみたって、隣の中国では猛烈に自動車が売れ、CO2排出量が増え、日本が25%削減することの効果はかき消される。



 温暖化が危機だというのが本当で、人為的なCO2排出増加がその原因だというなら、いつまでもノンキに排出削減の議論をやっている場合ではない。世界がすぐにでもCO2削減に動くことが必要だろう……でも、中国など発展途上国アメリカはなかなか動かない。ということは、「科学」的な将来予想が的中するのか、実験をしているということだな。


言い返す

 日本は世界に向けての情報発信が下手だとの指摘がある。外国メディアの日本関連ニュースが正確でないと見えたり、日本批判の論評を偏った見方だと受け止めたりすると、誤解や曲解が広まっていて日本が「正しく」理解されていないと悔しがる。そして、情報発信を強化しろとの声が上がる。

 情報発信が下手とは、外国のメディアなどに理解不足や誤解があり、その主因は日本側にあるとの認識だ。だから日本からの情報発信を増やせば、「相手は正しく理解してくれる」に違いないと期待して、日本側の情報発信を改善しようと考える。一方で、外国メディアなどの日本礼讃は、理解不足や誤解があっても無邪気に嬉しがる。

 一般に理解不足や誤解がある場合、①情報の発信側に問題がある、②情報の受信側に問題がある、③双方に問題がある、に分かれる。外国メディアに問題があって理解不足や誤解になっているなら、日本側の情報発信を増やしても効果は限られようし、外国メディアに日本に対するバイアスや偏見があるなら、日本が発信をいくら増やしても期待する効果は得られないだろう。

 「話せば相手は理解してくれる」との期待は、相手が「聞く耳を持たない」なら空回りする。日本の情報発信が下手だから外国メディアに理解不足や誤解があると反省して、日本からの情報発信を増やしてもスルーされるだけだ。どこの国でもメディアが、特定の価値観に基づいてニュースや論を仕立てることは珍しくない。

 下手なのは、情報発信ではなくて日本のリアクション(反論)だとすると、必要なのは、情報発信量を増やすことではなく、言い返すことだと見えてくる。もちろん、情緒的な言葉や罵倒、中傷で言い返すのは禁物で、根拠が乏しい主張も逆効果だ。言い返すとは、相手を説得するための行為であると認識し、相手の理性と知性と理解力に働きかけること。

 理解不足や誤解が生じるのは、①情報の不足、②情報収集の偏り、③情報の解釈の偏りーが原因だが、④意図的な誤解(批判することが目的)の場合もある。言い返す(説得する)場合には、相手の理解不足や誤解の原因を見極めて言い返し、理解不足や誤解があると相手に認識させなければ、相手は認識を変えないだろう。

 何を言われても、言い返さなかったり、おずおずと小声で反論するような人は、何を言ってもいい対象だと甘く見られたりする。言い返すことは相手に理解不足や誤解を気づかせてあげることであり、言い返しの応酬が続くだろうが、そうした積み重ねでコミュニケーションは深まろう。





69万票で落選

 2010年の参院選で当時の千葉景子法相は69万6739票の得票で、神奈川選挙区では4位で次点となり、落選した。3位当選した金子洋一氏の得票は74万5143票だった。ちなみに全国で最も得票数が多かったのは東京選挙区の蓮舫氏で171万734票を得た。



 69万票以上を取りながら落選した候補者がいる一方で、10万票台の得票で当選した候補者が4人いた。その選挙区は山梨、鳥取、徳島、高知で、山梨で当選したのは18万7010票を獲得した民主党参院議員会長の輿石東氏。高知選挙区で当選した広田一氏は13万7306票の得票で、選挙区の73当選者中の最低獲得数だ。



 千葉景子氏の69万6739票は、落選者中の最高得票数だ。2位は大阪選挙区の岡部まり氏で得票数は61万7932票。ちなみに50万票台を獲得しながら落選した候補者は4人、40万票台で落選したのは4人、30万票台で落選したのは10人、20万票台で落選した候補者は26人いた。



 千葉景子氏の69万6739票は、当選した広田一氏の13万7306票の5倍強になる。つまり千葉氏の得票数に並ぶには広田氏が5人必要になる。言い換えれば、神奈川県民の1票は、高知県民の1票の5分の1以下の価値しかないことになる。過疎地って、優遇されている?



 広田氏の当選は民意を反映したものなんだろうが、千葉氏の落選は民意を反映したものと言えるのだろうか。選挙区での73人の当選者中、千葉氏の69万6739票以上の得票数で当選したのは14人だけだ。得票数でいうなら先の参院選で千葉氏は全候補者の15位と上位にいる。そんな候補者が、選挙区で73人が当選した先の参院選で落選した……日本の選挙は民意の反映をあまり気にしないようだ。



 国勢調査結果に基づいて適時、選挙区割りなどを調整することが必要だと、ずいぶん以前からも指摘されているが、いつまでたっても国会は動かない。民意をできるだけ正確に議会構成に反映するという基本的な改革さえ、しようとしない国会。国民には、痛みを感じる改革を押し付けるのにね。



 選挙区割りが適時、変更されるようになると、せっかく築いた後援会組織がガタガタになりかねず、互いに事情を慮って国会議員の動きが鈍いのだろうが、そうしたことを承知の上で、先の参院選で69万票以上を獲得しながら落選した人を批判する国会議員は、相当の腹黒か相当のマヌケだな。






政治家タレント

 立候補したタレントやスポーツ選手らはひとまとめにタレント候補とされ、識見もなく知名度だけが頼りと見られているようで。こんな人が議員になって、何をやろうというんだろうと疑問を持たれ、当選しても党の執行部の指示で、賛成したり反対したりするだけなんだから、お人形さんだとか、集票力が党に買われただけだなどと見られましてね。



 人気タレントは儲かる商売でもあるようで、なかには何を勘違いしたのかセレブぶったりする人も現れる。タレントを見下していた人々は落ち着かなくなったものの、おバカタレントがクイズ番組で「再発見」され、やはり野に置け蓮華草、タレントは馬鹿にされつつ愛される存在というポジションに落ち着き、安心してタレント候補を批判できるようになった?

 

 タレント候補だって懸命に頑張っていたと評価する人もいまして。タレント候補にも識見のある人はおられるかもしれませんし、闘病や介護などの体験を国政に生かすと言う向きもあるようで。企業上がりや官庁上がりの候補者などが皆、識見があるかというと、とうてい断言はできないンでね。タレント上がりを特に見下さなくても、職業に貴賤はなく、期待はずれは同じようなものだったりして。



 タレント候補は選挙が終わると出番がなくなるのに、選挙が終わるとマスコミでの出番が増えるのが政治家タレント。政治ネタのバラエティ番組が増え、視聴率がまあまあ取れるのか、タレントなどを交えて床屋政談ならぬTV政談。タレントに遠慮しながら発言する政治家タレントがヒナダンに並んだりします。



 そうした番組では、党が違う政治家連中の馴れ合いぶりがうかがえる半面、識見を感じさせる発言がないのが不思議でして。そうした発言はきっとTV局がカットしているに違いない、TVに出ている政治家に識見がないはずがないから……と思うことにしているのですがね。



 政治家タレントもTV局のオボエがよくなると、娯楽バラエティやクイズ番組などにも招待されまして。国会議員ともあろうものが、まさか、オチャラケにつきあうはずがない……ところが、共演しているタレントにイジラレル始末。当意即妙に切り返す「芸」など政治家タレントは持っておらず、苦笑か自嘲か、力なく笑う政治家タレント。



 TV慣れ、バラエティ慣れした政治家タレントが増えると、人々の意識も変わらざるを得なくなるかもしれませんな。タレントが政治家になることは批判するが、政治家のタレント活動は容認するというは、明らかな矛盾でして。タレント候補には批判的であっても人々は、タレントには好意的なのですから、タレント候補も政治家タレントも同じようなもんだと許容するようになるかも。