望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





ドキュメンタリーの手法

 1970年11月25日、東京・市谷の自衛隊市ヶ谷駐屯地で楯の会会員5人が東部方面総監を人質にして立てこもり、バルコニーから、隊員に決起を求める演説をした三島由起夫はその後に自決、続いて森田必勝も自決した。若松孝二監督作品「11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」は、全共闘運動などが激しさを増す中で、三島と森田が自決に至るまでを描いた作品だ。



 その作品の上映会にゲストとして招かれた、映画で三島を演じた井浦新は上映後のトークで、監督からは、三島に似せようとしなくてもいいと言われたことや、撮影期間が2週間弱だったことを語った。若松監督の早撮りは有名だが、それにしても手早い。続いて撮影に入った「海燕ホテル・ブルー」も撮影期間は短く、「11.25~」よりも数日短かったという。



 井浦はまた、現場ではカメラテストもなしで、いきなり本番の撮影に入ったことなどを語った。映画の撮影では、入念なテストを繰り返し、監督が納得するまで本番を繰り返すのが“普通”だとの印象があるが、いきなり本番……か。役者やスタッフはさぞ緊張するだろうな。井浦さんによると、撮影時には役者がトチることは意外なほど少なかったという。



 テストもなしにすぐ本番。これは若松監督の映画づくりの本質を表している。劇映画を劇映画の撮影作法で撮るのではなく、劇映画を、目の前で起こっていることを記録するというドキュメンタリーの手法で撮る。事件現場や戦場で、撮り直しなんて不可能だ。ただ記録するしかない。ロケ現場で、セットで起きていることを記録し、それを編集して「作品」に仕立て上げる……これは若松監督ならではの力技だ。



 雲の形が気に入らないと撮影を何日も延ばしたりする監督や、役者にテスト、テストや本番で延々とダメだしをする監督は、名監督とされる人の中では珍しくないようだが、若松監督はまったく異なる方法論だ。20回も30回も演技のやり直しをさせたりするのは、それを見ながら監督も模索していたり、自分のイメージに当てはめさせようとするのだろうが、回を重ねるにつれ演技の“鮮度”は薄れる。



 ドキュメンタリーの手法とは、現実を見据え、現実を追う中から各自の表現を獲得して行く方法だ。CGが大活躍し、現実離れした世界を描く映画が氾濫しているが、突飛な発想も数が増えれば新鮮味は消え、底の浅さだけが鼻につくようになる。そんな中で若松監督の「ドキュメンタリー映画」は刺激的で新鮮だ。


感染拡大の波状攻撃

 フランスはパリなどで続けていた外出制限や店舗休業を全土に拡大し、学校を遠隔授業に切り替えた。850万人以上(国民の1割強)がワクチンを接種したが、感染力が強い英国型変異ウイルスによる感染加速で新規感染者数が6万人(3月31日)にもなる状況では、人々の接触を制限するしか策はない。ドイツでも変異ウイルスによる感染拡大が続いているが、規制強化を打ち出したものの人々の反発が強く政府は撤回に追い込まれた。

 米国でも新規感染者が6万人/日になるなど感染拡大が続き、CDC所長は欧州諸国で感染者や死者が再び急増している事態がアメリカでも起きないか心配だと警戒感を示した。ブラジルでも感染拡大が顕著で、死者数は昨年の2倍のペースで増加しているという。世界最大規模のワクチン生産国インドでも新規感染者が増え、国内接種のワクチン確保を優先するため輸出の制限を始めた。

 世界では感染者数は1億2830万人、死者数279万人(3月31日現在、以下同)。米国は感染者3039万人・死者55万人、ブラジルは1266万人・32万人、インドは1215万人・16万人。感染者数が1千万人を上回るのはこの3国だけ。フランスとロシア、英国は感染者数が400万人台、イタリアとトルコ、スペインが300万人台で、ドイツとコロンビア、アルゼンチン、ポーランド、メキシコが200万人台。

 感染拡大は日本でも目立つ。大阪や兵庫、宮城、山形、青森などで新規感染者の増加が続き、東京などでも減少傾向から反転し始めた。全国の感染者数は47万5335人で、死者数は9176人。東京で感染者数が12万人を超え、次いで大阪5.2万人、神奈川4.8万人、埼玉3.2万人、千葉2.9万人、愛知2.7万人。北海道と兵庫が2万人台で福岡が1.9万人。1千人未満は11県で、鳥取と島根、秋田は200人台で推移している。

 日本でも世界でも感染拡大が起きている地域・国と抑制されている地域・国に分かれる。感染拡大の理由として①人々の接触機会が多い、②人々の移動が多い、③変異ウイルスの存在ーなどの違いが想定される。外出制限やロックダウンなどが長引くと人々は我慢できなくなって反発したり、制限が日常化したことによる気の緩みなどからコロナ以前の行動形態に戻ることなどが影響している可能性もある。

 この感染拡大は第4波が襲来したと懸念する地域・国が多いようだ。新型コロナウイルスの感染拡大には波があり、波状攻撃とも見えるが、実際には、感染者の増加で外出制限やロックダウンなど規制を強めて人々を自宅に閉じ込めることで感染者の増加を減らし、制限を緩めると人々の接触機会が増えて感染者が増加することを繰り返しているだけだ。

 人々の接触機会が増えると感染者が増える構造が続くなら、新型コロナウイルスが自然消滅するか治療薬が誕生するまで感染拡大の波状攻撃が続くだろう。ワクチンの効果は未知数で、外出制限やロックダウンを厳しくしたり緩めたりを繰り返すしか人類には対応法がないとすると、これからも波状攻撃は繰り返される。人々が出歩いて人々と会って話し、旅行することを放棄することはないからだ。





不正ばかり

 

 とある週末、のどかな昼下がりにチャイムの音。誰かが訪ねて来る予定はなかったので、新聞の勧誘か何かのセールスかと思って玄関のドアを小さく開けると、こざっぱりした身なりの中年の女性が1人、「まあ、ドアを開けていただいて、ありがとうございます」と意外そうな顔で言う。



 雰囲気から、こりゃ宗教関係だなと思いつつ、?という目で見ると、その中年女性は「今の世界は不正ばかりで、ウソと欺瞞に溢れています」と始めた。一生懸命に覚えたであろうトークの、せっかくの披露の場なんだろうが、うっかり聞き始めると長くなりそうなので、「そっちのほうは、関心ないですから」と断って、お引き取り願った。



 しばらく後でふと、あのトークはどんなふうに展開して行ったのかと気になった。「今の世界は不正ばかり」と切り出されれば、「いや、今の世界に不正は少ない」と異論を感じる人は少ないだろう。誰もが同意しやすいことから始め、相手が「そうね」などと言おうものなら大成功、同意をさせることを重ねつつ、その宗派の世界に引きずり込むのだろうな。



 「今の世界は不正ばかり」という世界観には、つい同意したくなるが、それが正しいとも間違っているとも決めつけることはできない。不正の定義は立場によって変化するものだろうし、世界が不正ばかりかどうかも、人によって見解が異なるだろう。さらにいえば、「今の」世界だけの問題なのか、人間世界はいつでも不正ばかりだったのか、それも人によって見解が分かれそうだ。



 「今の世界は不正ばかり」との言葉に納得しがちなのは、世の中の出来事を批判的に報じるマスコミの影響が大きいからだろう。日本でも外国でも、おかしなことばかりが次々に起きているように見える。でも、不正ばかりだと嘆いても、怒っても、世界が覚醒しますようにと祈っても、世界は変わらないので「不正ばかり」の状況も変わらない。



  世界が不正やウソや欺瞞に溢れているとするなら、それらを個別に見て、人間(個人)の問題なのか、政治・経済体制や法整備などシステムの不備・欠陥の問題なのかを見分けることが議論の前提になる。分析的に見ることをせず、大まかに世界をとらえて警世家を気取り憂い顔で嘆いてみせたって、何も変わらないし、熱心に祈ってみたって何も変わらない。



 何も変わらず、いつでも「世界は不正ばかりで、ウソと欺瞞に溢れて」いるから、いつまでも宗教の出番があるのかもしれない。もちろん宗教に熱心になったところで、世界から不正はなくならないし、自分の境遇が改善されるわけでもないのだが、いつまでも「今の世界は不正ばかり」と嘆き続けることはできる。つまり宗教は永遠だ(多分ね)。



ゴジラの老後

 東宝映画「ゴジラ」が公開されたのは1954年(昭和29年)だから、67年前のこだ。水爆実験により太古の眠りから目覚めた大怪獣だとも、核実験の放射線で恐竜が変異した生物だともされるゴジラは、体長50mという巨大な体を持ち、海から東京に上陸してビルなどを破壊し、さらに口から放射能火炎を吹くという、暴れっぷりを見せた。

 恐竜が進化したものなのか、生き残っていた恐竜が核実験の放射能で変異したものなのか、正体がよく分からないゴジラだが、2004年に現れたのを最後に出現しなくなった。1998年には米東部にも現れたが、その体つきは一変しており、ゴジラと同一種ではなく亜種だったようだ。ゴジラはどうしているのだろうか、死んだのだろうか。

 1954年に初めて現れたゴジラが生き残っているとすれば、67歳+αの年齢になり、人間世界では初老扱いされ始める頃だ。ゴジラは1954年に既に“成獣”だったので、今は70歳を超えているのは確かそうだが、まだまだ“働き盛り”なのか、初老なのか、ゴジラの寿命が分かっていないので判断しようがない。

 ゴジラは体力が衰えて“引退”したのかどうかを知るには、寿命を知るのが手がかりになる。体の大きな哺乳類でみると、象の平均寿命は60~70年、クジラは85年とされ、動物の中では長寿だ。一般に、体の大きなものは小さなものよりも寿命が長くなる傾向があるというので、恐竜の仲間だというゴジラは他の“普通”の恐竜よりも長生きするはずだ。

 恐竜の平均寿命は、残された骨から推定すると、小型の獣脚類で3~5年、初期の角竜で10年、ティラノサウルスなど大型の獣脚類で30年という。長いとはいえない一生だが、やはり大型ほど寿命が長い傾向がある。巨大なゴジラティラノサウルスなどより長寿でありそうな気がするが、放射能の影響を受けていることもあり、どれほど長生きかは分からない。

 そもそも怪獣の寿命が分かりにくい。本能のまま(?)に破壊しまくる怪獣は、元気なうちにヒーローに倒される。それが彼らの天寿ともいえるが、静かに暮らしていたならば、どれくらいの寿命があるのか誰も知らない。ゴジラ放射能火炎を吹くほどの飛び抜けた能力を持っているが、飛び抜けて長寿なのか、逆に短い生涯のうちにパワーを出し切るのか、どちらも考えられるから厄介だ。

 ゴジラは大活躍した。ゴジラが盛りを過ぎ、どこかで生きているとすれば、どんな“老後”を送っているのだろうか。擬人化してみれば、引退したスポーツ選手が現役時代を懐かしむように、「キングギドラは強かったなあ」とか「モスラはいい相棒だったなあ」とか言ってそうだ。人間の役者なら、主役を降りても、脇に回って渋い味を見せるという生き方があるが、それはゴジラには似合わない。

やり返すという対応法

 やられたら、同じ分だけ、やり返すという対応をする人は、強い精神力を有するタフな人物と見られるだろう。批判されたら同じように相手を批判し、嘲笑されたら嘲笑し返し、1発殴られたら1発殴り返し、2発殴られたら2発殴り返し、蹴られたら蹴り返す……こうした対応法の落とし穴は、双方の応酬がエスカレートしやすいことだ。

 先に1発殴ったのが相手で、同じ1発を殴り返したとしても、相手が同じ分だけ返されたと認識するかどうかは不明で、やり返されたことでカッとなって、さらに殴りかかってくることは珍しくない。言葉の応酬から始まって取っ組み合いに発展するのは子供の喧嘩によくあることだが、自制する力が伴っていなければ、やられた分だけ、やり返すという対応法は挑発行為となりかねない。

 やり返すという対応法は、他人と対等の立場に常に立っていようとする意志に基づく。批判されてもろくに反論せず、嘲笑されても黙ったままで、1発殴られて泣きべそをかくだけだったなら、なめられる存在となり、対等の立場に立つとはみられなくなる。だが、対等の立場にない者が対等に振る舞うと、相手を挑発する行為と見做されたりもする。

 やられた分だけ、やり返すという対応法は外交にも用いられる。強く批判されたなら強く批判し返し、経済制裁されたなら経済制裁し返すという外交で最近目立つのが中国だ。中国はEU関係者らや英国の政界関係者ら9人と4団体を対象に制裁を科し、また、米国とカナダの議員らにも制裁を科すと発表した。これは先にEUと米、英、カナダが対中制裁を実施したことに対する対抗措置。

 中国の主張は「ウイグルの人権問題を口実に中国に制裁を実施し、内政に干渉した」「噓と偽りの情報に基づいて一方的に制裁を実施した」など強硬で、譲歩する気配は皆無だ。世界2位の経済大国になり、欧米と対等の立場に立ったとの自負と、国内で愛国主義を煽っているので、欧米の主張に少しでも譲歩すればプライドを傷つけられた人々の怒りの矛先が中国共産党に向かいかねず譲歩できないのだろう。

 以前から指摘されていたウイグルにおける大規模な人権侵害を口実に今になって欧米が中国に対する批判を強め、経済制裁に動くのは、中国に対する警戒感の高まりを示す。欧米主導の世界秩序に対する現実的な脅威だと認識したのなら、封じ込めの動きの手始めかもしれない。だが、欧米企業との経済的な結びつきが緊密なので中国は欧米に対して強気に出ることができるし、欧米も経済的な関係を壊してまで中国封じ込めに動くことはできまい。

 やられたら、やり返す外交は他国と対等の立場に立とうとする主権国家にとって当然かもしれないが、自制心が希薄ならエスカレートしやすいことは子供の喧嘩と変わりない。欧米にとってウイグルの大規模な人権侵害は対中国の交渉カードに過ぎないだろうが、中国にとっては妥協の余地がなく、否定し続けなければならない。エスカレートしやすいのは中国のほうだ。

「中華民族」という怪

 2012年に中国共産党の総書記に選ばれた習近平氏は記者会見で「我々は偉大な民族」で「5千年の文明発展の歴史において、中華民族は人類文明の進歩に貢献した」が、「近代以降、我々の民族は度重なる苦難を経験し、中華民族は最も危険な時を迎えた」とし、「我々の責任は、中華民族の偉大な復興のために努力奮闘し、中華民族を世界の民族の中でさらに力強く自立させること」と語った。

 「中華民族の偉大な復興」が、周辺諸国を従わせて君臨するという過去の中華王朝の再現を意味するとすれば、傍迷惑な発想といわざるを得ない。でも、中華民族なるものが偉大だった過去が本当にあるのかという疑問が湧いてくる。

 漢民族でも満州族でもモンゴル族でもない中華民族なる概念が、いつごろ形成されたのかと調べると、意外に新しい。20世紀に入ってからだった。中華民族という概念は1902年に初めて梁啓超が提起したもので、その後に孫文が「五族共和」(漢、満、豪、蔵、回による共和)を掲げつつ、中華民族の形成を訴えた(加々美光行著「中国の民族問題」=岩波現代文庫)。

 提起されてから百年以上の歴史があるのだから、概念としては定着したと言ってもいいかもしれないが、中国の20世紀は衰退の世紀だった。その間に形成された中華民族という概念を持ち出して「偉大な復興」と言っても、中華民族が偉大だった過去の実績はない。帝国だったのは唐や元、明、清などで、その当時、中華民族の概念はなかったのだから、「復興」の言葉は実体がなく、適当ではない。習氏の言う中華民族論は空想でしかない。

 中国共産党中華民族を持ち出したのは、独裁を正当化するためだ。共産党独裁は、プロレタリアート階級独裁の尖兵として共産党が位置するという構図だが、貧富の差の拡大を肯定する経済政策に転じたのだから、プロレタリアート独裁はもう持ち出せない。ヘタに階級意識を持ち出すと、今の中国にこそ共産主義革命が必要だテナことになりかねない。

 階級論を封印した中国共産党は、自らの独裁を正当化するためには、経済を高度成長させたとか、対日抗戦の勝利者であるとか、いろいろ「功績」を持ち出す。中華民族という曖昧な言葉も、中国共産党こそ中華民族の正当な代表であるとの意識を人々に植え付けるために利用している。また、経済が成長した現在の中国に対する人々の肯定感が、中華民族意識を許容しているのかもしれない。

 中華民族という言葉には、別の政治的な意味がある。それは、現在の中国に住む漢民族を始めとする人々に、中華民族という意識を持たせ、統一感を高めるという側面だ。そうなると例えば、「蔵」の自立要求は中華民族概念を否定することになり、「中華民族」に肯定感を持つ人々には違和感を生じさせる。つまり、中華民族という言葉を受け入れると、中国共産党の弾圧政策への容認につながる。

終末の日

 古代マヤ暦に基づき2012年12月21日が「世界終末の日」になると騒がれたが、世界的に大した出来事はなく、その日が過ぎた。ノストラダムスの予言でも、空から何かが降ってくると不安がられたが、その日にテポドンが落ちて来ることもなく、無事に過ぎた。

 マヤ暦に基づく終末の日なるものを、本気で信じた人が世界にどれだけいるのか不明だが、いいネタにはなったようだ。例えば、観光キャンペーンもあってか中南米マヤ文明関連の土地に観光客が押し寄せたり、「箱船」や地下核シェルターが注目されたり、生活必需品の買い占めが起きたり。

 人々はなぜ、終末の不安を煽る予言に反応するのだろうか。2000年問題のように、コンピューターが誤作動を起こす可能性があるなどと具体的に示されれば不安を感じるのは当然だろうが、「マヤ暦による終末の日」などは、そのときに起きることが具体的に示されないから、個人の不安感が増幅される。つまり、不安に反応しやすい人は過剰に反応することにもなる。

 一方では、終末論を楽しむ人もいる。終末に関する騒ぎを楽しむ人もいれば、終末が来ることの危機感、緊張感を支えに自説を言い立てたりする人もいて、本人はまじめなのだが、終末が来ることを願っているとしか傍からは見えなかったりする。宗教的背景も、終末論の受け入れやすさに関係しているのかもしれないが、異教の終末論に反応するのであれば、やはり個人の資質によるところが大きいのかもしれない。

 冷静だったのが、ロシアのプーチン大統領の発言。記者会見で「世界の終わり」について聞かれ、「(太陽が寿命を迎える)45億年後に全てが終わる」と述べた。これは、やがて太陽が膨張し始めて、地球との距離が縮まり、太陽から届く熱が大幅に増えて、地球上のものは全て焼き尽くされる未来を示したもの。

 太陽系の全質量の99.86%を占める巨大な太陽は、中心核で熱核融合が起きているが、やがて中心部から周辺に熱核融合が広がる。現在は、熱核融合により膨張しようとする力が、重力により収縮しようとする力とバランスをとって太陽の大きさはほぼ一定に維持されているが、やがて膨張しようとする力のほうが大きくなり、太陽は巨大化を始め、水星と金星は飲み込まれる。ただ、時期については諸説あり、45億年後と決まったわけではなく、太陽の膨張が始まるのはもっと先だともいう。

 地球上の生命にとって終末は必ずやってくるのだが、数十億年先のことを言われても、個人には寿命があり、また、人類がこの先、数十億年あるいは数億年、地球上で子孫を繋ぐことができるのかと考えると、人類にとっての終末は別の形になるかもしれない。その終末は予測不能だろうから、予言は楽しむ程度に止めておくことが賢明か。